昭和48年02月05日 朝の御理解



 御理解 第67節
 「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。」

 信心は矢張り長う続くと言う事が大事。どんなに華やかなぱぁっとした信心をしておっても、信心を途中でやめたら値打ちは無い。信心が段々血になり肉になって、所謂自分のものになるというかね、というおかげを頂かなければならない。その過程において様々な所を通らせて貰う。是は信心に限らぬ事ですけれども、何事でも釘付けではないのですから。そこで留まっておるとか決まっておると言う事は無い。
 いつも生きておるから、生き物ですから、時勢が例えば変わって行く様に、私共の信心も矢張り生き生きと、様々な所を通らせて頂いてもよい。でなからなければ長う続かぬと。一つの形というものを作ってしまって、その形通りにやっていかなければ、形通りのことをやったら、難しい事になる。その形からはみ出る様な場合もありゃ、小さくなる場合もありましょうけれども。そこん所を頂いていかなきゃならんが。
 ただ信心が長う続いておるというだけで、心の上にも形の上にも、おかげの実感というものが無いようであったら、これはつまりません。長く続いておるだけで。ただ。金光様の信心を頂いておると。形の上におかげを頂く。まぁ形の上にこそおかげを頂いてないけれども、心が助かっていく姿状態というものが有難い。と言う様にどちらにかね、有難いというものが伴うておる。それでいて信心はいつも同じではない。
 様々な時がある。上りの時もありゃ下りの時もある、広々とした所に出る時もあると言う様にです。していきませんと長う続かぬとこう言う。今日のこの六十七節に、どういう風に関係があるか、皆さん考えて頂きたいと思うんですけれども。今朝方から私そのお夢を頂いた。それが友人と誰か分からんけれど、二人で喫茶店ともレストランともつかんような、相当大きなお店に入ってお茶を頂いておる。
 友人はちょっと用事があるから、君ここで待ってくれとこう言うわけで、私はお茶でも飲みながら、そこで待っておった。これは椅子テーブルなんか、沢山あるんですけれども、私どもが入っておるだけで、お客さんはあっておる風じゃない。それで私はその友人が帰って来るのを待ってるわけですから。待って、お茶を飲んでケーキのようなものを頂き終わっとった。そしたらそこの女中さんですかね。
 が私のケーキ皿にまた小さい最中の様なものを、いっちょ持って来てくれた。はぁこれはえらいサービスが良いなぁと私は思うた。そうしよったらまた誰かが、一人お客さんが入ってきた。その人はここではアルコール分ですね、いわゆる飲み物を飲んでも良いのかと、こう女中さんに聞きよったら、軽い飲み物なら良いですと言いよる。そしてお酒を出してる。そうしておるうちにまた私の所にお菓子を何か、一つ持って来てくれた。これはえらいサービスが、ここは良いなとと言う様なお夢でした。
 ま、何ともつかんお夢です。けれども私はこれは、もう夢が覚めてから痛い程に、私自身感ずることがあったんです。これだけの広い店とこれだけ沢山のテーブルがあるのに、私どもが一組とその人が長い間、時間を潰し待っておるんですけれども、誰もお客さんが無い。私たちがです例えば信心をさせて頂いておっても、心の上になり形の上になり、おかげを頂いておる実感がいっぱいある。本当に何と言うても此の頃、無信心でお参りも出来んけれども、おかげだけはよう頂くという例えばおかげ。
 おかげって本当に形の上には頂いてないけれども、心が育っていくというか、心に有難いものを感ずるということは、もう心いっぱいだと。でなからなければならんがその店が、それだけの椅子テーブルがありながら、がらんとしておると言う事がね、空いておると言う事が、おかげが受けられないというのは、どう言う事かと私は、つも自問自答していかなければいけないと思う。皆さんの場合。
 信心の道を教えて貰う、その道を分からせて貰うその喜び。それがこうして朝参りして来るものでもあろう。それがまたはおかげにも繋がる。ほんならこうして毎日お参り出来んけれども。やっぱり合楽の金光様のご信心を頂いておるおかげで、おかげを頂いておるという人達もある。だからどちらかです。おかげを受けておるという実感が無いならね、これはちょっと自分というものを、本気で見直してみなきゃいけない。
 私はその喫茶店ともレストランとも分からないようなお家に入ってから、大体は喫茶店のようであって、何か食事のようなものも出しゃ、酒も出すといったようなお店。だから私は思うてからかえって、もう純喫茶なら喫茶レストランならレストラン。という風に示したほうがかえって、お客さんも多いのじゃないだろうか。そこが一杯になんのじゃないだろうか。しかもなかなかサービスが良いけれども。私はこのサービス過剰と言う事もね是はかえって、お客さんを少なくする事だと。
 これはお店なんかのサービス過剰というのなら、未だ良いですけれども、おまけにおまけをするなら。これは取分け私は思うんですけれども。教会であり信者であるという、その間のことですけれども。かえってサービス過剰にすることが、信者を減らすような場合がある。サービス過剰の場合が、相手をかえって甘やかすような結果を招く様な事がある。この二つの欠点があると言う事です。
 もうあすこに行くととてもほとげらっしゃる。もう何でんかんでん惜しか事なかごとして出さっしゃる。だから心のちった卑しい人ならばわざと尚行くでしょう。けどもそれは所謂甘え心を造る様なもの。けれどもまともな人ならばです気の毒かと思うてから、まぁ行くと構いなさるからもう行かれん。ち言うてかえって寄り付かん事に成って来る。ですからね是は本当に考えなきゃいけないなぁと私は思う事があるです。私共の光昭がマル少関係でどこか遠い所に行った時に、帰りに知り合いになった人が尋ねて来る。
 いつもご飯時に来る。この頃来るかなんか奥さんまで連れて来る。ほいで一遍出したもんじゃけん、しゃっちそしてお酒も大変好きな方ですからお酒も出す。これは私どものちっとサービス過剰がですね彼を甘やかした。一番最後には大変難儀な問題を、神様にお願いをしてくれじゃなくてから、私に相談を持ちかけて来ると言う様な事になって来た。丁度たまにしか参って来ない或る人と、丁度ここで会ってからその人に何か頼んだ。その人は大変損害を蒙ったち言うようなことになった。
 私の方でサービス過剰でなかったら、こういう事にもならなかったろうと思うことがある。本当にこの辺は考えなきゃいけないことである。とにかくサービスをすることによって、図に乗って来る人。そすとサービス過剰になって、あすこに行くとあんまり、ほとめきなさるけんで、滅多に行かれんちゅうて、かえって寄り付かんようになって来るという人。そこで私は思うんですけれどね、今日のご理解から。確かに釘付けではないのですから、同んなじではないけれども。
 いかに成り行きを尊ばせて貰う、成り行きを大切にしながらの、見極めをつけていかなければいけないかと言う事です。お互い信心させて頂いておって心に感ずる有難い。または形の上に現れて来る所のおかげの有難さ。是がね続いていないとするとです、続いていないで只長う続いておるだけであったらつまらん。この辺の所をです、例えば成り行きを愈々大事にさせて頂きながら、成り行きを大事にすると言う事は、その時点時点をです、大事にして行く事ですけれども。
 それが過剰になってはならない。大事にすると言う事は過剰になる事じゃない。光昭の友人と言うても、光昭より十も十五も多い人なんです。是なんか却って相手を増長させたり、甘やかすと言う様な結果になっておって、しかもここにお参りをして来る人が迷惑を蒙っておると。まぁ事実相当な迷惑をかけておる訳です。それで私はこの頃から見えてある時に相談があったけれども、私はその相談を私はもう信心一途で話した。だからその人の相談には乗れなかった。それっきりまあ見えないようですけれどもね。
 私たちの生き方の上にもです、例えば最近御事柄と言う様な事が言われる事はね、過剰になれと言う事じゃないです。いかに何と言うてもです、断らなければならん時には、スパッと断らなければいけないと言う事。これは成り行きを大事にすると言うても、例えば私がほうれん草のお知らせを頂いて、ほうれん草のそれこそ引っこいだまま、洗いもせずに、泥のついたままでも、髭もついたままでも、枯葉のあるとでもただ頂くと言う、たから頂くというのは、これは余りもの信心である。
 キチッと洗う事は洗わなんならん、切って取る所は切って取らにゃならん。なるほど御事柄として受けなければならんけれどもね、御事柄として受けてはならない所は、スパッと切って退けていかなきゃいけん。ここ辺の所をですね、間違わんようにしなければいけません。相手が増長してくる。そう言う様な事を黙って受けると言った様な事は、是は御事柄として受ける様な事ではないのです。そこん所の見極めがです。私が頂いておるおかげの実感というものが、なからなければならないと言う事。
 これは私どもの是は私の性格ですけれども。成程時分にどもご飯ならご飯の時分にども、来合わせて帰んなはんなら、そりゃご飯ぐらい出さんならん。けどもま一時待ちなさいご飯が出来るけん。そしてご飯頂いていきなさい。これはいけないなと思うですね。私はこれは大いに慎まなければいけない。そして相手を図々しくさせる様な事になったり、又はその為にもあそこに行くと、もう引き止められるけんで行かん。と言った様な事になったりする結果にしかならない。
 もう本当に成り行きを尊ぶとか、大事にすると言った様なそれこそ、流れる水の様なね生き方というものを身に着ける。そういう信心がです私は釘付けではないと言う事だと思うです。いつも生き生きとして、だからその生きた働きがです生きた心でいつも、キャッチされていかなければならない。そこで見極めがつく自分の欠点と申しますか。言うならどうも人ばほとめき過ぎる欠点と気づいていないと。
 それを良い事の様に思うとる。事柄をそれば大事にするとの様な思い方をして居る様な場合が、私共にはあると言う事。だからそこを改めていかなきゃ、もうそれこそ流れる水のようにです。サラサラーッと流すとこは流していかなきゃいけないと言う事。そこからですね、私は長う続くというおかげが頂かれると。これは取分け教会とご信者さんとの場合なんかは、教会であんまりほとめかれるのは、もうこげん嫌なものはないですね。これは私自身の体験です。気色の悪かです。
 所がどうも私の性分として、昔からそういう過剰な所があってほとめき好きで、是は信者にも随分ご迷惑をかけてきたなぁと、今日改めて思うんです。是は決して良い事じゃない。勿論この信者ば大事にしときゃ、教会の為になるけんと言った様な、例えば思いどもがあるようなサービスなら、これは愈々もっていけないですね。この人にお茶の一杯も出しとくと又家んためになるかも知れん。これは教会じゃないお宅あたりの場合でも、それが言えれると思う。
 ただその時分に見えたから、お茶漬一つでも上がっていきなさいとか。見えたらお茶でも一服ぐらい汲むとか。これは良いけれども、それが過剰になってはいけない。いついつまでも、長うお付き合いが出来る事の為にも、そこん所をブレーキかけるとこはかけなければ、自分の性分がです、おかげの邪魔に成る様な事になっては相すまん。長う続かん事になってはつまらん。
 今日のご理解に、適切かどうか分からんけれども、今朝私が頂いたお夢の中からです。今日の釘付けではないからいつも違う。だから家にはお茶一服出さん事を建前にしとる。もう絶対ご飯出さん事に決めとる。と言う様な事ではないのですから。時分に見えたら、ご飯の一つも出すのが当たり前。または急いでおられんならまぁお茶を一服も。それを、急ぎよんなさっとに、まぁそんなこつ言わんでお茶を一服頂いていきなさい。
 と掴まえちからまで、お茶飲ませて帰すと言った様な事はです、言わばスムーズさを必ず欠くです。銘々にしておらねば長う続かぬ、と言う所をです。そういう一つの是は人間関係の場合ですけれども。その人の所謂気分の通りにして差し上げれる親切が欲しいという事なんです。ご飯な食ぶうごつなかと、相手は思いよるとに無理出すと言った様な事ではいけない。もうここでお茶飲むよか、早う帰った方が良いと思いよる人は、早く帰って貰ったが良い。所謂銘々にしておかなければいけない。
 そう言う事で親交を深めよう。言うならば、交わりを深めようと言った様な考え方は、それでは長う続かん事になるです。信心を勿論何事もと仰るが、信心も釘付けではない。だから、いつも同じ様な型だけではない。様々な所がある。けれどもどんな場合であってもです。私どもの心の中におかげを感じておるという、一貫したものがなからなけりゃいけない。是だけのお店が広いのにですお客さんが無い。それはどう言う事かと。先ず是だけの信心はしよるけど、おかげを頂かれんと言う事はどうした事かと。
 やっぱ自問自答してみなければいけない。そしてサービス過剰が却ってあれしとらんのだろうか。いかにも看板には喫茶店と、喫茶としておりながらです。お客さんが望めば、酒も出すと言った様な生き方が、却ってその店の繁盛を阻害しとるのではないかと。いかにも何でも屋のようで、人の便利を図っとる様にあるけれども、それではその椅子が全部遊んでおると言う事実があるじゃないか。
 だからいつでも、この店が一杯であると言う所の願いを、信心のおかげを頂いていかなければいけない。自分の心にどの様な形でも良いから、おかげの感じられる。それが反省してみてです、所謂銘々にしておらなければならないのを、銘々にしていない、自分の思い通りに、しようとして居る様な事が、却って繁盛を妨げる、と言った様な事ではないか。却ってそれではお客さんの足が遠いのではないか。
 折角あの人とお付き合いをしたい、長く続けたいとこう思う人が、例えば途中からプツッと切れるとするならばです。その人に対するところの不純なサービス過剰がありはしなかっただろうか。却ってもう放任主義の方が、あの人の為には良かったんじゃなかろうか。と言う様なです、改まらしていかなければならない事が、私共の家庭の上にも、教会の上にも沢山あるように、今日のお夢の中から、私は感じさせて頂きました。